20年後のケモノ ──7度「三月の5日間」 / 山田亮太

 チェルフィッチュ「三月の5日間」(作・演出:岡田利規)が2004年の初演から現在までにもたらした広範な影響に比して、その初演に立ち会えた人の数はそれほど多くはないだろう。私もまた、初演は観ておらず、同作品に初めて触れたのは、岸田國士戯曲賞受賞後の2005年に刊行された戯曲集においてであった。戯曲という形式においてこれまでおよそ味わったことのないテキストのありように強い衝撃を受けた。その後、まずは記録映像を観て、いくばくか後に何度目かの再演を観た、というのが私の「三月の5日間」とのかかわり方だった。初めての出会いが戯曲だったから、あるいは言葉だけでできている──にもかかわらずそれは常に言葉以外の表現へと開かれている──戯曲という表現形式を私が愛好するという事情もあるだろうか、私にとって「三月の5日間」とは、上演以上にテキストとして鮮烈な作品だった。

 このたびの、初演から20年後に上演された7度による「三月の5日間」(演出:伊藤全記)は、この作品のテキストとしての強さをあらためて思い起こさせてくれるものだった。

 
 テキストとしての「三月の5日間」のまず目につく特徴は、それがモノローグの集積であるという点だ。一般的な演劇に期待されるような、複数の登場人物による言葉の応酬は少なく、基本的に各々の語り手のひとり語りの連続によって全体が構成されている。語り手たちはこの物語の登場人物たち──ライブハウスで出会ったのち互いの名も明かさぬまま渋谷のラブホテルで5日間を過ごす男女や、その間に開戦したイラク戦争への抗議デモに参加する若者ら──について、ときには第三者の視点で、ときには彼ら自身になりかわって語っていく。「超リアル日本語」とも称される、文が途切れることなく、主語や主題が曖昧なままだらだらとつづく語りの中で、語りの様態はたびたび変化する。結果として発話された言葉は安定した足場を失ったままそれ自体が異様な存在感をもって響く。

 一方で、チェルフィッチュによる「三月の5日間」の上演においては、戯曲を読むだけでは見えにくいふたつの特異性があらわになる。第一の点は、登場人物と俳優の関係にかかわる。登場人物とほぼ同数の俳優が出演するものの、ひとりの登場人物とひとりの俳優が一対一対応するわけではない。そうではなくて、ひとりの人物の表象を複数の俳優が交代で担う。このため観客は、人物の像を特定の俳優の身体に依拠せずに結ぶことになる。第二に言葉と俳優の所作の過剰な対応。私たちは発話の際にしばしば無意識のうちに身振り手振りを加えて話すわけだが、そうした日常的な所作を増幅し、発話とシンクロさせながらあたかもダンスの振り付けのように反復して使用する。

 登場人物と俳優の複雑な関係性。言葉と身体の過剰な一致。チェルフィッチュ上演の肝となるこの二つの要素は、7度の上演においては厳格に封じられているようだ。

 第一の点については、本上演の出演者が山口真由ただひとりであるということで予告されていた。ひとりの俳優がすべての台詞を発話する。それを聴くことは戯曲を読む体験に近い。必然的に、オリジナル上演が有していた複数の俳優の行為が織り成す空間構成の複雑さを犠牲にするわけだが、むしろテキストそのものに内在する複雑さすなわち個々の言葉の所在の多様さと重層性がくっきりと浮かび上がる。

 第二の封印については、よりしたたかに企まれているようだ。異例の長さの「前説」──ここでは今作の経緯や解説、物語の舞台となる渋谷での俳優自身(?)の体験エピソードなどが語られる──においてこそチェルフィッチュ的身振りが引用されるものの、本編に入ると一転してそうした身振りは取り入れられない。というか、冒頭から20分ほどは、暗闇の中、声が聴こえるのみで、俳優の身体はほとんど見えない。やがて照明が入ったのちも、ただゆっくりと歩行するなど、俳優の所作はきわめて抑制的だ。

公演写真

 二つの要素の封印は、オリジナル上演にあったダンサブルで体感に訴える快を奪う。その代わりに観客は、そこで語られた言葉に全神経を集中させ聴き取ろうとする。そこで聴こえてくる言葉とは例えば次のようなものだ。

で、あ、そうだ戦争どうなったんだろうって思って、そしたらツタヤの大きいビジョンの字幕ニュースに、バグダットに巡航ミサイル限定空爆開始、って書いてあって、あ、はじまったんだやっぱりって思いながら、デモ通るのとかちょっと見て、またホテル、割とすぐ戻ったんですけど、
(7度版「三月の5日間」構成台本より、以下同)

 この前すごい公園通りのほうとか行くとディズニーストアとかあるんですけど、この前店の前で、店の入口がガラス張りじゃないですか、そこの前に立って、イスラエルがアラブ人をすごい虐殺したっていう話があるんですけどその子供の死体とかの写真を店の中に見えるように持って店の中に見せるっていう、

や、たぶん俺の読みなんだけど、たぶん三日後、俺らホテル出て、それぞれの生活にまあ戻るかな、みたいな、でもそのときって、たぶん俺の読みなんだけど、おそらくもう戦争、終わってるんじゃないかと思うんだよね、甘いかなー、



 あの戦争の顛末とその後の世界情勢、いま進行している戦争、二十年前と現在の情報環境、社会問題が露出する形の変化、世界で起きている出来事と私たちの生活との距離、いまなお継続している惨事……。反射的にさまざまな想念が去来する。いま目の前で発話されている言葉が、二十年前に書かれた言葉でもあるということを意識するとき、それらの想念は多方向に揺れ動く。ラブホテルという窓のない閉ざされた空間と、その外部にひろがるデモの声と街頭が発する情報とでやかましい空間。二つの空間の往還が、この作品の基調になっているわけだが、内に閉じこもることと外へ出ていくことの意味はこの二十年で幾度も意味を変えたことにも思い至る。

公演写真

 けれど私の場合、観劇の間、もっとも強く印象に残ったのは次の言葉だった。

それで、そう、そういえば俺ら丸二日間なんにも食べてなくない? ってことになって、あ、ほんとだ全然忘れてたんだけど、みたいな、なんか俺らすごい、ケモノみたいじゃない? って、すごいウケて二人で、それで何食べようってことになって、渋谷の、平日のお昼の渋谷だったらなんかランチバイキングみたいなやつでよくない? そういうとこで食いまくっておいて、またホテル戻ったらヤりまくる態勢を整える、みたいな、俺らほらケモノだから、とか言って、



 ホテルで2日間を過ごした時点で男が発した言葉を再現した、和やかで微笑ましいシーンだが、この中で粒立てて発せられる「ケモノ」という語がやけに耳に残る。そしてこの「ケモノ」という主題は、終盤近くに語られるエピソードへと接続する。

 特別な5日間を終えて帰路につくはずの女は、ふと思い立ってホテルまでの道を引き返す。その途上で犬を目撃する。一瞬犬だと思い込んだそれは実際にはホームレスの人だった。人間を動物と見間違えた事実に衝撃を受け、女は嘔吐する。もとより深い余韻をもたらす印象的なエピソードだが、前述の「ケモノ」という語が布石となって、いっそうの切迫感をもって受け止められたのだった。

 さらには中盤のシーンでの俳優のふるまいも思い起こされた。両手を地面につけ、四つ足で歩くような所作。それは本上演の中でほとんど唯一といってよい、日常的な所作から逸脱した行為だったが、あれもまた「ケモノ」を示唆していたのではなかろうか。

 二十年がたった。私たちはいくらか賢くなっただろうか。ある面ではそうかもしれない。
社会正義や人権への配慮義務はこの社会のすみずみまでいきわたり、私たちの経済活動を左右する。だがその一方で、尊重すべき者とそうではない者との峻別を、私たちはかつてよりもずっとあけすけに決然と行うようになった。諦念とともに誰かをひとでなし=ケモノとみなすとき、私もまた別のケモノになっている。「俺らほらケモノだから」。この野蛮さを正当化する内なる声に、私は吐き気を催すのだった。

山田亮太(詩人)

詩集に『ジャイアントフィールド』(思潮社)、『オバマ・グーグル』(思潮社、小熊秀雄賞)、『誕生祭』(七月堂)。共著に『新しい手洗いのために』(素粒社)、『空気の日記』(書肆侃侃房)、『TEXT BY NO TEXT』(いぬのせなか座)など。2006年よりヴァーバル・アート・ユニット「TOLTA」で活動し、書籍や舞台作品、インスタレーションの制作を行う。TOLTAで参加した主な展覧会に「あそびのじかん」(東京都現代美術館)、「月に吠えよ、萩原朔太郎展」(世田谷文学館)など。