まだ生きているソクラテスに

中辻英恵(劇作家)

 2024年6月15日・16日、7度によって、演劇作品として上演されたプラトン『ソクラテスの弁明』、副題「あるいは たたかわなかった わたしについて」(於:京都芸術センター フリースペース)では、受付でフエラムネが配られる。上演中、ソクラテスが有罪か無罪かが問われる場面で鳴らすように、とのことだ。
 はじめ、そこに選択の余地はないように思えた。なにしろソクラテスである。ソクラテスといえば、「不当に迫害された歴史上の偉人」の筆頭ではないか。端的に言えば、そんなもん無罪やろ、というわけだ。

 しかしそんな思いは、山口真由さんの演じるソクラテスの声に耳を傾けるうち、ぐらついてくる。ぐらつきが決定的になったのは、「アテナイ人諸君」というソクラテスの呼びかけが、拡声器で増幅されて響いたときだった。
 拡声器。コードの一端にマイク、もう一端に腰に装着できるスピーカーのついた、現代的な小道具だ。



 この舞台では、ソクラテスの裁判やアテナイの文化について過不足ない説明は挟まれるものの、台詞自体は一貫して原作にかなり忠実であった。一方で、拡声器や電気スタンド、コーヒーメーカーといった、描かれている時代には存在しないはずのモノが当たり前のように登場する。もちろん採決に用いられるフエラムネも、その一つに数えられるだろう。
 短い周期で使い捨てられ、とんでもない速さで進化させられてきた製品たちに比べれば、その進化をもたらした人間たちの生身には驚くほど変化がない。紀元前の人も今の人もたいした差はないとでもいうような、どこか神々のような倒錯した威厳を湛えつつ、モノたちは舞台と客席を、すなわち法廷を取り囲む。そうして、ソクラテスが現代にあらわれたのでもない、観客が古代に連れていかれたのでもない、でも確かに観客の目の前でソクラテスが生きている空間が、作り出される。



 そんな空間で、捉えようとすればすり抜けていく時代を背景に、ソクラテスだけがくっきりと、今ここにいる人間として立ち現れる。そこに、かの偉大なる賢人の姿を見出すことは難しい。むしろその話は胡散くさく、なんだかちょっと嫌味ですらある。
 ソクラテスより知恵のある者はいない。その神託を反駁するため、ソクラテスは賢いとされる人々と話をしてみた。そして分かったのは、彼らが自分たちの知らないことまで知っていると思いこんでいるということだった。ソクラテスは、自分が知らないということを自覚しているという点において、他よりすぐれた知者だといえるのだろう。だから歩きまわり、賢いとされている人をつかまえ、対話によって吟味し、無知の自覚を促してきた。敵意を向けられ、結果として告発され裁判を受けることになっても、だ。
 ……なるほど?

 こうなると、困るのはフエラムネである。そんなもん無罪やろ、とはもうとても思えない。しかし有罪かと言われると、それも分からない。さすがに疎まれるのは仕方ないのでは――でも、言っていることの筋は通っている。通っている気がする。などなどと悩む間もなく、判断し表明しなくてはならない。今、ここで、同じように裁判を目撃している人々のあいだで。ソクラテスがこんなにも目の前に「居る」このとき、その死後2400年間の歴史というカンニングペーパーは役に立たない。
 とても困る。なぜなら、私は私の愚かさを露呈する危険を冒したくないから。あるいはもっと正直に、傲慢になるならば、周りに賢いと思われたいからだ。
 個人的な話をすると、私にとってこれが初めてのフエラムネだった。そういうお菓子があることは知っていたが、口笛も吹けず風船ガムも膨らませられないので、なんとなく縁がない気がしていたのだ。開演前に、希望する観客にはフエラムネと別に楽器を貸し出す旨のアナウンスがあり、フエラムネを鳴らせないかもしれない自分は借りたほうがいいと思ったが、借りなかった。そんなもん無罪やろと思いつつ、もしかしたら言い訳の余地を残していたのかもしれない。
 鳴らすつもりはあったが鳴らせなかったのです。私は正しく善い選択をしたのですが。
 思惑どおりというか、私のフエラムネは小さな掠れた音をたてたあと、口のなかで溶けてしまった。「たたかわなかった わたし」がそこにいた。

 さて、観客の判断がどうあれ、原作どおりこのソクラテスも有罪となる。量刑を決める段でソクラテスは、迎賓館にて食事のもてなしを受けることを申し出る。ソクラテスのしてきたことは、ひとりひとりが思慮ある者となるよう説得すること、つまり善いことなのだから。知識としてそういうくだりがあるのは知っていたが、目の前で述べられるとつくづく挑発的だ。命のかかっている局面でそんな態度をとるなんて、ぞっとする。しかしどこか爽快でもある。言ったれ言ったれ。「たたかわなかった」私は、無責任な聴衆となる。
 結局、罰金も支払うことができず、追放も受け入れないソクラテスに下されるのは、死刑だ。この舞台では判決後、ソクラテスがコーヒーを淹れはじめる。挽かれる豆らしきものやガラス器のなかに落ちてくる滴が名指されることはないが、立ちこめる匂いはあきらかにコーヒーのものである。



 ソクラテスの死刑は毒殺だった。刑の執行は『ソクラテスの弁明』のなかでは行われず、同じくプラトンによる『パイドン』という対話篇の終わりに、ソクラテスが毒杯を干す場面が描かれている。この舞台で演じられる裁判では、言葉の上で予定されているにすぎないソクラテスの死が、コーヒーメーカーによって『弁明』の時間に取り込まれていた。舞台と客席、すなわち法廷のすみずみまで満たし、私たちの鼻腔に侵入する香りとして。生きている者が呼吸する空気のなかに、その気になればいつでも嗅ぎつけられるものとして。
 入れられたのがコーヒー豆ではなく毒人参であっても、コーヒーメーカーは弛むことなく抽出を続けるだろう。神のように、運命のように、ソクラテスの死の準備をするだろう。

 そう、ソクラテスは死ぬ。ほかのすべての人間と同じように。

 照明が落ち、電気スタンドの明かりは闇夜の松明、あるいは宇宙のまんなかの太陽だ。照らし出されたソクラテスはゆっくりと、生きている者みなにとっての無知の領域、死についての考えのなかへと沈み込んでいく。近づきつつある裁判の終わりは上演の終わりであり、陰影の刻まれた俳優の顔は、そのままソクラテスその人の顔となる。
 従容として死に赴くソクラテス、死んで哲学の源流のひとつとなり、時代を超えて多くの人々の師となるソクラテスは、それでもこの上演中、このとき、まだ生きている。
 ソクラテスに同じ時を生きる者として出会うことは、当時のアテナイ人たちと、もしかしたら同じかもしれない気持ちを抱えこむことだ。戸惑い、困らせられ、恥をかかされる。考えの浅い自分に腹が立つのを誤魔化すため、ソクラテスに怒りを向ける。観劇の終盤、胸にこみあげてきたのは強烈な、ほとんど恨みと区別がつかないほどの慕わしさだった。
 なぜそんなに穏やかに、死刑を受け入れてしまうのか。私はまだ、あなたの話を聞いていたいのに。たしかに私は「たたかわなかった」、だからなんだ。なら尚更どうして、こんなにも愚かで弱い私を置いていくのだ。最高の知者のくせに。誰よりも賢いくせに。
 まだ生きているソクラテスがそこにいるから、そんなことだって思えてしまう。なんという不遜と甘え。そしてなんという、幸福な体験だっただろう。