出演者である山口真由が舞台上に現れる。山口は前説として、20年前に初演されたこの作品のバックグラウンドを説明し、山口自身が体験した、階段が平面に見えてしまう錯覚の話や、過去と今の時間感覚が混じり合って混乱した話などを語り、ステージから去っていく。上演が始まるとステージ全体を照らしていたあかりが消える。あらためて山口は暗闇からゆっくりと現れる。
『三月の5日間』の登場人物は複数名いるが、舞台上で演じる俳優は山口ひとりだけだ。美術として置いてある小さなオイルモーションの赤い光だけが灯り、ぽつぽつとセリフを語る断続的な声だけが聞こえてくる。暗闇で語る山口の姿はよく見えない。しばらくの間、私はオイルモーションの光を見つめていた。オレンジに、青に、赤に、緑にライトの色を変えながらオイルモーションの容器の中に浮遊しているオイルはいくつかの塊に分裂したり、混じり合って一つに融合したりしている。分裂と融合を繰り返しながら、時にふわーっと上昇し、時に下降しながら、ひとときも留まることなく動き続ける。オイルの分裂や融合は、山口が語るラブホテルでセックスを繰り返している男女の話と重なり、段々とまぐわいあう男女の体にも、その魂の形にも見えてくる。登場人物は「暗闇の中で過ごしていると今が昼なのか夜なのか、どのくらいの時間が経ったのかわからなくなる」と語る。気がつけば観劇している自分も、登場人物たちの時間感覚に巻き込まれている。それは、世界中の人々と共有されている、カウントできるクロノス的時間から外れた、早くなったり遅くなったり、伸び縮みする感覚的なカイロス的時間だ。しばらくして、舞台上は明るくなり山口の姿がはっきりと見えるようになる。暗闇の中で、山口の語りは観客に向けらていると思っていたが、姿がはっきり見えてくると山口は観客に向かってではなく、横を向いていたり天井を向いていたりと、誰もいない空間に向けられていたことに気がつく。
山口はしゃべりながら、ゆっくりとした歩みで客席の脇を通り抜け、ステージからはみ出し、客席の後ろを回り、一周してまたステージに戻ってくる。観客は目で山口を追えばある程度は見えるし、自分の座っている場所から立ち上がって見える位置まで移動すれば山口の姿を見ることはできる。開演前の注意事項にも、上演中に席から移動してはいけないという案内もされていない。しかし、並べられた客席の向きと、その目の前にあるスペースによってステージの正面というものが示されていて、自分が選択した一人分の席に座り続けてステージの方を向いて鑑賞する心構えになっている。だから、山口が客席の横を通っているとき、後ろを通っているとき、たまには体を捻って少しだけ目で追いかけようとすることはあっても、しばらくすると、またステージの方に体を向けて、ぼーっと山口の声に耳を傾けるようになる。その後、また暗闇や、舞台の横や後方に移動したりなど、身体が見えない(見えにくい)シーン、明るいステージ上で姿の見えるシーンが交互にやってくる。語り手の身体が見えるときと、見えないとき、それを聞き取る私のモードは全然違っていた。会場であるBUoYの地下は、コンクリート打ちっぱなしで天井が低い。この空間で放たれる声は微妙に反響を起こす。語る身体が見えなくなったとき、声の出どころは少し曖昧になり語り手の身体の輪郭がぼやけてくる。その声は遠く洞窟の奥から聞こえてくるようでもあり、遠い過去からやってくる声のようでもある。
後半のシーン、山口は水中を浮遊するようにゆったりと蠢きだす。空間に漂う空気が密度を増し、語られる場所や時を飛び移り始める。四つん這いで四つ足の獣や爬虫類のようになるとき、人間の言語を扱いながら、身体の時間は進化の過程を逆行していく。語りの時間や場所が移り変わるように、身体の時間や場所も移り変わっていく。物語の中で5日間、昼とも夜ともなしにまぐわいあう二人は「なんか俺らすごい、ケモノみたいじゃない?」と言葉を交わす。クロノス的時間も場所も、名前もない。そこでは社会的なものが溶けだしている。まぐわう二人は、社会的、人間的ではないケモノに近づいていく。しかし、男の股間に痛みがやってきて、徐々に現実の肉体が戻ってくる。お金も体力も尽きた二人。やがて人間社会から外れていた特別な時間の終わりがやってくる。お互いの本名もバックグラウンドもよく知らないまま、社会的な情報を纏わない存在として出会い、肉体を交わらせオイルモーションのオイルのように肉体の境界もわからなくなるような時間から、それぞれの肉体に戻り、また現実の社会に別々に戻っていく。

ラストの場面、女は男と別れたあと、渋谷の街から去り難くなってホテルの近くに戻る。女は路上でウンコをしているホームレスを野良犬に見間違える。社会から外れた人間の身体が野良犬に見えたことに激しいショックを受け、女は嘔吐する。
戦争は人間を人間としてみなさないで殺す。さっきまでホテルの中で社会的なものが溶けてしまっていた時空間の外では、イラク戦争に反対するデモが、社会的、人間的なものごとの最たるものが起こっていた。残虐な行為を「ケモノのよう」と形容することがあるが、外で起きている戦争で行われている残虐な行為は「ケモノのよう」ではなく、もっとも人間的な行為に思えてくる。ケモノの残虐さと人間的な残虐さは似ているようだが、全く違う。人間を「ケモノのよう」にみなす視点は「戦争する身体」との境界を一瞬失い、目眩を起こす。自身が「ケモノのよう」であることと、「ケモノのよう」に人間をみなすことの間には恐ろしいほどの隔たりがある。が、どちらも私たちの身体に潜んでいることに気づかされる。
作品の終わりのあたりで、山口は「一緒に過ごした女として語る男」として語る。そこにいるのは山口であり、男であり、男が語る女であり、女であり、それを語る山口でもある。ここにいるのが誰なのか、誰が誰として語っているのか、その日はいつなのか、日付さえも前に進んだり、戻ったりしながら、重ねられた人物、時間、場所のレイヤーはぐるぐると循環する。『三月の5日間』で描かれた20年前のあの渋谷はもうない。そこにいた人たちも年齢を重ね、今は別人のように変化しているだろう。その頃は生まれていなかった人もいるだろう。もうこの世にいない人もいるだろう。ブックファーストもない。大きい店も、小さい店も目まぐるしく入れ替わっている。山口が語る20年前の渋谷と現在の渋谷の隔たり。20年前のイラク戦争という出来事との隔たり。20年前の日本や世界と今の日本や世界の状況との隔たり。前にはあった建物、人、出来事、社会の状況は今はもうない。しかし、山口が語るとき、目の前に20年前の人間が現れ、声が聞こえ、その人物たちの時間へ引き戻される。今はもうないあれこれが今あるかのように。

山口という俳優の身体と声に、いくつもの登場人物が入っては出ていく。山口の語りは目の前の観客ではなく、劇場空間に宛てて放たれていた。BUoYという地下の洞窟のような場所に響く声は、海に放たれた瓶に入った手紙のように、誰に届くのかわからない、宛先のないメッセージだ。いつか誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない声。上演の終わりに山口は、ゆっくり「ははははははは……」と乾いた笑い声を残して、幽霊のように舞台の外に去っていく。幽霊は20年前の「あの時」からここに現れ、その声を残し、劇の終わりとともに帰っていく。微かな声、7度が掲げている「dim voice」が、語り手がいなくなった空間に浮遊霊のように漂っていた。7度の『三月の5日間』に立ち会った私は、その声の響きを自分宛てのものとして聞いてしまった。その響きは、未だにこの身体に微かに木霊している。
7度はこれまで、多くは外国の古典と呼ばれるテキストを扱ってきた。遠い時間と場所を超えた微かな声を、俳優の肉体を通して呼び出してきた。『三月の5日間』でもそのアプローチが粛々と行われていた。預言者は聞こえない声を聞き、人々に伝える者だ。7度の演劇は、聞こえない、肉体を持たない声を、私たちに伝える。目に見えない者たちの声はいつでも私たちにメッセージを送っている。過去は消え去らない。