7度の『東京ノート』を見て、フェルメールとは別の画家、J. M. W. ターナーの『レグルス』を思い出した。
カルタゴの捕虜となったローマの将軍レグルスは、まぶたを切り取られて暗い牢獄に閉じ込められたのち屋外に引き出され、太陽を直視して失明したという。消失点に据えられた眩い太陽、思わず目を瞑りたくなるような陽の光に満ちたターナーの『レグルス』は、失明する瞬間の将軍の視野を再現したものともいわれる。
芝居の後半、壁に映し出された原田裕規の二つの映像作品が、次第に明度を上げていく。ついに映像は真っ白になるが、それを演者の一人(山田裕子)がじっと見つめる。全体にわたって台詞の少ない彼女は、この場面において、見る行為そのものを代表しているかのようだ。原田の作品《One Million Seeings》は、作家が集めた「行き場のない写真」を24時間にわたって見続けた、その記録だという。百万の見ること。身体の、目の酷使。レグルスが見えなくなったのは、見すぎてしまったからだった。見ないから見えないだけではない。過剰に見ることによって、見えなくなる。
撮影:水本俊也
このときもうひとりの役者(山口真由)は、フェルメールの絵について話している。フェルメールの絵画では、人物はみな窓の方を向いている。窓から差し込む光が当たるところだけを見て生活を切り取り、残りは真っ暗なのだという。そうして、見たいものだけを見えるようにする。しかしそのとき、窓の外を見やる「生活」者、恋人を待つ娘や地理学者の目には、どんな光が流れこんでいるのだろうか。絵の鑑賞者からは直接見ることのできない太陽が、窓の外には見えるはずだ。
芝居は写真撮影の場面で終わる。「撮りまーす」と言ってデジタルカメラのフラッシュが、照明の落とされた空間でたかれる。一瞬のまぶしさ。目に光の残像が残り、空間は真っ黒になる。何も見えないのは、暗すぎるからなのか、明るすぎたからなのか。その直前、義妹は絵画好きの義姉に、自分の絵を、よく見て描いてくれと頼んでいる。たがいを見つめあって、にらめっこみたいと言う。望遠鏡の先にいる宇宙人を想像して、逆にらめっこと言う。レンズを覗きこむ者だけでなく、レンズを向けられる側もまた見ているかもしれない。撮影者は陽光に目を焼かれるかもしれないが、被写体もまたフラッシュの光を直視してしまうかもしれない。
7度の公演ではおなじみの(といっても私が7度を観るのは『三月の5日間』以来二作目なのだが)前口上の最後で、『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本のタイトルが言及される。メディア理論家、フリードリヒ・キットラーの代表作だ。十九世紀に生まれた、音、光、言葉を記録する三つの技術が、人間のメディア環境を決定的に変えた。絵画というオールドメディアを軸に、会話らしい会話で展開する『東京ノート』は、こうした主題と縁が薄いと思えるかもしれない。しかし7度の公演では、映像がうつしだされ、次第に音量を増すノイズが流れ、同じ言葉がくりかえし再生される。7度版『東京ノート』は、決して大仰にではないにせよ、『東京ノート』のメディア論的再構成という側面を持つ。
『グラモフォン・フィルム・タイプライター』のなかに、映像に撮ることと銃で撃つことの起源における一致を論じる箇所がある。記録メディアの歴史と軍事技術の歴史は切り離せず、撮影カメラの完成とは自動銃の完成にほかならない。ひとたびそのことに気づけば、壁に映し出された原田の映像作品も、フェルメールやカメラオブスクラについての他愛ない会話も、にわかに不穏さを帯びはじめる。美術家の善意と献身にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、映し出される「機械化された死」は、銃によるそれと不可分である。条件さえ整えば、人間は望遠鏡の先にいる宇宙人をも、必死で殺しに行こうとするだろう。
元は銭湯だった会場BUoYの浴槽を背にした空間で、舞台は展開される。道具らしい道具といえば、何もない空間に役者が運びこむパイプ椅子のみである。私は最初、これを登場人物の代わりだと思った。原作の『東京ノート』に登場する複数の人物が、7度の公演では二人の役者に溶け込んでいる。どの台詞が誰の言葉か、原作を多少知るくらいでは追うことができず、結果として役者の発話が、しばしば客席の背後に回り込んでなされることも相まって、輪郭の曖昧な環境音のように聴かれることになる。もっともこれは演出家の意図するところでもあるのかもしれない。終演後のトークでも、これに近いことが伊藤全記から語られていたと記憶している。

撮影:水本俊也
だから舞台に多少の輪郭を補うために、人物の代替物としてのパイプ椅子が置かれているのだと思った。おおまかに二つの塊に配置され、映像の方を向いたり互いに向かい合ったりする椅子が、そこに一定の秩序を形作ろうとしているのだと。しかしその期待を裏切って、椅子はどんどん増えていく。ゆっくりと、だが着実に。椅子は特定の人数を表すというよりも、〈多〉そのものの表現であるようだ。幾葉もの写真と、幾脚もの椅子。
話は冒頭に戻ってくる。〈多〉を見るとは、どういうことなのか。7度のこの上演は、1990年代から2020年代の30年を「今一度、上演を通して見つめてみるプロジェクト」の一環だという。〈多〉様性の平成。人生いろいろ。湾岸戦争に向かう〈多〉国籍軍。だが〈多〉を見つめようとしたら、身体を、目を、際限なく酷使しなければならなくなる。『三月の5日間』も『東京ノート』も、ある面で、真摯に見ない者たちの物語だった。戦争は現実に起きているのに、それは遠くの出来事でしかなく、セックスに、絵画に、写真に、かまけている。だが、目を閉じず必死に見たとしても、同じことが起こる。見なければ見えないが、見すぎても見えなくなる。そして彼らが、あるいは私たちが、いったいどちらの状態にあるのか、結局のところ決めることができない。私たちは見ていたのか見ていなかったのか、思い出すことができない。
勝田悠紀
1991年生まれ。文学。直近の論考に「フィクションの感触を求めて」(『文学+WEB版』にて連載)、「もうひとつのフィクション性――「妖精物語について」における〈現実〉の位相」(『ユリイカ』)など、著書に『「不思議の国のアリス」で深める英文解釈12講』(NHK出版)、訳書にスラヴォイ・ジジェク『あえて左翼と名乗ろう』(青土社)がある。