マルグリット・デュラスと<dim voice>──7度『DIM VOICES 4』

北里義之(舞踊・音楽批評)

 マルグリット・デュラスの小説『廊下で座っているおとこ』(原作:1980年、翻訳:小沼純一)を演劇化した7度の『DIM VOICES 4』は、伊藤全記が演出した山口真由の一人芝居である。7度がデュラスを扱うのは、3年前に「DIM VOICES 3」として公演された『太西洋のおとこ』(2020年2月、八丁堀 七針)につづいてこれが2作目。今回扱われたのは「あらゆる装飾をそぎ、極度に凝縮されたポルノグラフィ」とコピーされる謎のテクストだ。この小説の存在を知ったのが、タップダンサーのおどるなつこと大正琴の竹田賢一が共演した10年ほど前の公演「触発の行方」(2014年5月、喫茶茶会記)だったからだと思うが、本公演も文学や演劇としてではなく、一種のフィジカル・シアターとして受け取ることになった。そのせいかどうか、過去3回の公演では理解が届いていなかった7度の演劇観・演技観を集約する概念<dim voice>にも、少し近づけたような気がする。以下でそのことについて書いてみたい。

 <dim voice>を解く鍵は、(1)デュラスのテクスト、(2)演出家の演出、(3)女優のパフォーマンス、という3つの位相で与えられている。

 『廊下で座っているおとこ』が比喩的に「ポルノグラフィ」と呼ばれるのは、直接的には訳者の小沼純一による解説文によるものだが、アラン・ロブ=グリエ(1922-2008)の小説『嫉妬』(1957年)のように、感情を極限まで排し、視覚的な客観描写に徹するという映画的な方法で、男女の営みを細部にいたるまで記述している点にあるだろう。小説の語り手は「私は見る」を連発しながら見られているはずの「彼女」について、語り手=登場人物、私=彼女という人称の等置によって心理的な出来事も即物的な観察眼にさらしていくため、テクストを読む読者もまた、不安定に揺れ動きつづける語りの位相によって立ち位置を失っていく。

喜怒哀楽の感情は、なぜそれが書かれているかということを意味づける。そうした感情的なるものを極力排した本作品では、文学的・演劇的に生じてくる意味がすべて排除された「純粋描写」だけが坦々とつづいていくことになる。日本文学でも、正岡子規の「写生文」という似たような概念が知られているだろう。山口真由のパフォーマンスもまた、言葉に感情を乗せることなく、規則的なテンポに乗せて秒針の刻みそのもののように言葉を発していくものであった。言葉を説明するような身ぶり、表情などの演技も、一切が廃されている。そのかわりにパフォーマンスの時間を埋めているのは、会場を歩きまわり、じっと立ちどまり、壁に手を押しあて、椅子に座る、足を組むといったどれもが日常的な、というよりむしろ事務的なといっていいようなしぐさであり、それは女優が語るものと無関係にたどられていく。このテクストから離れた動きの無意味さは、動きが動きそのものによってしか説明できないというダンスの本質に通じていて、本作品で女優が演技としておこなったミニマルな動きの反復は、細密に振付られたダンスと呼べるような条件を満たすものだった。端的にいうならダンスだった。

 

dim voices4 舞台写真

 

 7度の演劇観・演技観を集約する<dim voice>については、公演の回数を重ねるたびに、漠然とした方向性がひとつの概念へと精度を増して彫琢されてきたように感じる。その過程で「声の作家」デュラスとの出会いが大きかったことは想像にかたくない。その声が「dim」(ぼやけた、ぼんやりとした、薄暗くてはっきり見えない)という性格を持つことについて、あるいは7度の作品が実際に暗闇を必要とすることについて理解するには、デュラスも議論の一端をしめているポストコロニアル文学に参照枠を広げ、特にガヤトリ・スピヴァックがいう「サバルタン」の声なき声を参照してみるのがいいと思う。

 詳細な議論に立ち入ることはできないが、図式的にいうなら、スピヴァックがいう「サバルタンの声」というのは、文化帝国主義と植民地の間──西欧と非西欧の間といいかえられるもの──にある非対称の権力関係が生んだ声のことで、植民地化によって固有の文化や言葉を奪われた存在が、宗主国のメジャー言語を簒奪・改変することで「オリジナルな声」を仮設することを意味している。たとえばそれは人権を求める権利要求の声として聞こえてくるが、このときサバルタンの<dim voice>は、そうした明快で合理的な言葉を持った声の裏にはりつくようにしてある声、それ自体はけっして聞かれることのない声として、つねに闇のなかで響いているもののことと定義できるだろう。

 このことをデュラス文学に即して考えると、デュラスその人がフランス領インドシナで多感な青春時代を送ったことが重要な要素として浮かびあがってくる。すなわち、西欧と非西欧の間に引き裂かれた(同時に架け渡された)彼女自身の世界を、個人的な関係性にあらわれる性愛(もしかすると幻想でしかないもの、あるいはそのような幻想そのもの)がふたたび縫合できるのかという問いが、彼女の文学の根源にあるということ。そしてフランス国民というマジョリティの側に属する彼女自身がその問いを生きるためには、つねに特権としてあらわれる自身の作家性や女性性を解体するような文学スタイルを創造する必要があったということ。このことはすでに周知のことかもしれないが、何度でも確認しておくべきことだろう。

 

dim voices4 舞台写真

 

こんなふうにみていくとき、『廊下で座っているおとこ』を演じる山口真由の特徴になっていた身ぶり、感情を脱色し、演技を事務的なしぐさに一元化する身ぶりは、けっして形式的な演出のレベルにとどまるものではなく、この作品の場合は特に、作家の自己解体の文体をそのまま演技に移したものとみるべきで、7度の演劇は、デュラスに即していうなら、演劇が演劇であることから身をふりほどきながらおこなうもうひとつの(来るべき)演劇創造の試みなのである。演劇の更新ではなく転生というべきもの。

 もう一度いえば、山口真由が演じる無表情の演技、徹底して事務的なしぐさは、精密な振付によって構成されたものだ。無表情の声を坦々と維持しながらも、演者がステージをテンポよくまわるとき言葉もまたスキップを踏みはじめるときの音楽性、性描写の場面を語るとき、椅子にじっとすわって床を見つめるときの堅固な彫刻性などにそのことを強く感じる。

 こうしたパフォーマンスと真逆の位置にあったのが、黒と赤の椅子がまるで男女の関係性を象徴するように置かれたステージを照らし出す照明の演出だった。寒々とした蛍光灯がともる冒頭場面から、次第に照明の数が減っていき、やがてその声が発せられるべき漆黒の闇へといたる光そのもののドラマツルギーを経由して、最後の場面では、観客席の背後から世界を赤一色に染める強力な光が発せられ、地獄の炎に焼かれるような赤赤赤のなかで、観客の視線を狙い撃ちするようにして、<観る>という行為そのものの劇化へと(あるいは溶解へと)誘う流れが押し寄せたのだった。光を最大限に活用した戦略的演出というべきもの。光はもう一種類あって、こちらはダイナミックに動くものではなく、むしろ静態的なありようでホリゾントに出現してくるものだった。まるではるか昔からそこにあったようにして、あるいは厚手のカーテンを引きあけるとそこには朝の日ざしが満ちあふれていたというようにして、上手端から下手端に向かって光の扉がゆっくりと開いていくのである。天岩戸がようやく開いたような開放感。この光はもう一度、今度は赤い色と青い色が混じりあうことなく鮮烈な対照性をみせる映像としてリプリーズされる。赤とは真逆の関係にある青は、二脚の椅子をならべて赤と青のガムテでがんじがらめにしていく、そのガムテの色にも登場してくる。

 

dim voices4 舞台写真

 

 物語的にいえば、ガムテで縛られた二脚の椅子は、もつれあった男女関係を暗示するだろうが、そのなかで持ち出された青は、赤との二項対立関係をはずれ、それだけで別なものを指し示してもいた。というのも、再度デュラス文学に戻れば、それは『大西洋のおとこ』にあらわれたような海の青であり、すべての境界線が侵食しあう砂浜へと通じるパスポートの青に通じているからである。そこには青の特権性がある。<dim voice>が<dim>であるままに、遠くに潮騒を聞くような開かれた場所にたたずんでいることを物語るもの、それがこの青なのである。たとえばベケットの作品に登場する声とデュラスの声の違いもここにあり、デュラスの声は、その他者性がすでにこの開かれのなかで聞かれ語られていることに他ならないということ。その意味で、『DIM VOICES 4』の青こそは、『廊下で座っているおとこ』に宛てた7度のコミットメントなのだといえるだろう。