7度『廊下で座っているおとこ』、かつて翻訳を手掛けたものが、ふれて

小沼純一(音楽・文化批評・詩人)

7度がマルグリット・デュラスの作品を上演するのは二度目。数年前に『大西洋のおとこ』が、今年2023年7月2日(日)に『廊下で座っているおとこ』が、である。場所は、大山のサブテレニアン。どちらの作品も、デュラスは戯曲として書いたわけではない。前者は映像を前提とした書きかたをしているようだが小説のように――小説として――も読め、後者はより明確に小説、である。戯曲ではない。7度はこうしたテクストを「上演」する。声と身体、空間がそれぞれに不可欠であるものとして、とらえなおす。文字をひとりの読者が読むのではなく、文字を声にしてたちあげ、時間のながれのなかでアーティキュレイトしながら、あわせて演じるもののからだが目にはいってくる状態として、さらには、おなじ空間でちかくに、おなじように演じるものをみている、じぶんとおなじ観客をどこかしら感じながら、みる、体感する、ことばをたどってゆく。

『廊下で座っているおとこ』は、先にも記したように、小説だ。演じるものはひとり、山口真由のみ。ほかにあるのは電球がひとつ。色違いの椅子が2つ。すこしはなされ、ひとつはふつうに、もうひとつは逆むきになっている。

 

dim voices4 舞台写真

 

山口真由は、テクストを語る。
語る? そうなのだろうか? ほんとうだろうか? テクストは「わたしはみる」と語ってゆく。この「わたし」がみているもの、目にはいるものが、地の文になっている。当然、地の文がそのまま、発音される。では、これは朗読なのか?
そうでない、とはいえない。だが、やはり、そうではない。山口真由はうごく。歩く。壁にむかう。椅子に座る。語りはそのあいだも、つづいている。途切れることもあるが、ほぼ90分、語りつづける。
語りは、なめらか、でない。翻訳されたテクストは句読点が多いが、さらに、声はもっとこまかな分節をする。たどたどしい、とも、きれぎれに、とも形容できる。そこもまた、朗読ではない、ありかただ。通常の朗読にあるスムーズなながれはここにない。この列島のことばが、主語があり述語があり、おわりのところで肯定なのか否定なのか疑問なのかといったさま。これを逆手にとって、声をきいているひとたちは、ことばがつづいているなか、一文がどうおちつくのかを、宙づりになる。ならざるをえない。しかも山口真由の語りのテンポは、間をとりながら、ゆっくりしている。能の、とまではとてもいえないが。もっとずっとふつうの語りのテンポではあるが、それでも、はやくない。

わたしはここにおこっているテンポ、読み、語り、の時間を全身で感じていた。区切って語る、ゆえに、たぶん原語とは違った――この列島のことばの――意味のあらわれがあり、それはもともとわたしじしんが翻訳したテクストでもあるわけで、数十年前に訳しながらどこかで考えていたことではあるけれども、声にして、間をとると、さらに明瞭になる。それが、先の宙づり、という状態だ。これは、文字として、文字を視線が追ってゆく、読むもののテンポにゆだねられるものではなく、声にして発されるがゆえの強制・権力でもある。
 
演じてが、山口真由が、「わたし」という。
 語りは女性、に、今回の芝居では、かなり明確になっていた。訳しているとき、この「わたし」はあいまい、というか、ニュートラル、あるいは、どちらでも、ではあった。だが女性が演じ、女性の声、女性の語りとなると、男性とかなり違ってくる。語りだけでなく、2人を「みて」いるひとなのだから。ニュートラルに語ってはいる。いるけれど、その「なか」、心身は女性/男性でずいぶん違ってくる。
 
ふうむ、とおもわされたのは、テクストを読み、訳していたときにはそうでもなかった、語るもの、語るものがみている女性と男性、3者の立体的なありかた。そこにこそ、みえ(てい)ない、イマージュがたちあがっていること。また、演じてはそこにいて、語っているのだから、存在感は強烈だけど、他方、演出家はそこにいないながらも、いないがゆえの力を行使している――はずなのだけれども、テクストと演者と演出家の関係が、そのときどきで、微妙に揺れ、変化する。それこそが、具体的な空間で演じられることのつよさ、意味でもあって。この空間のなか、語るものと女性、男性のトライアングルがあり、ことばと演出家、演じるもののトライアングルがあり、空間と時間、照明のトライアングルがあり、この3つのトライアングルがかさなりあって、その場にいるものたちは、実際にはみえない力=意味の場を体感する。

 

dim voices4 舞台写真

 

はじめのほう、演者がうごくばかりのところから、4回(?)ほどか、2つの電子的な音があらわれる。あ、こんな音を、とおもう。でも、すぐ終わる。すっかり忘れていたころにふたたび。三度、四度。また、すこしにごった合成音の変化と背景に女性コーラスの加わるところがあり、と、音響的にはあまり変化がなさそうでいて、そうでもないありかたが、淡々とした舞台――仮に舞台、と呼ぶにすぎないのだけれど――とともに。
 椅子2つの位置、そのうごかし、さらにテープで緊縛してゆく場面は、このスタティックにおもえる作品に亀裂をいれる。かつて野田秀樹が『売り言葉』で高村千恵子をヒロインにし、この列島にはまだなかったという設定のセロテープをはりめぐらせるその音をみごとにつかっていたのを想起する。ここではおなじテープでもより強力で幅の広いもののゆえ、サブテレニアンの空間では、よりひびき、鮮烈だった。
 
90分、持つんだろうか、この「持つ」はみているわたしが、神経が、体力が、ということで、そうした危惧を抱いていた。杞憂だった。むしろ、90分強を短く感じた。それは、劇空間だったから、なのかどうかはわからないにしろ。
それにしても、だ――テクスト全篇をおぼえ、語る山口真由に脱帽……。

公演は1日のみ、2回。その前日、前々日には山口真由を中心にした女性限定の語りあいが持たれたときく。演出の伊藤全記も加わることがなかった場で、どのようなことばが交わされていたのか、いずれ、なんらかのかたちで知りたいとおもう。いや、それは閉じた、徹底してその場のみであり、外に洩れない秘教性ゆえにこそ、『廊下で座っているおとこ』という上演の影として、あるのかもしれないけれど。