「7度 DIM VOICES 4 廊下で座っている男」
関 未玲(マルグリット・デュラス研究者)
デュラスの世界観をつくりあげることは難しい。しかし、白旗をあげてデュラスの世界から離れてしまうこともまた難しい―デュラス作品に魅了された者にとって、まるで挑戦状のようにつきつけられた「やれるものなら、やってみなさい」という見えない声が、私たちを束縛し、そこから動けないようにしてしまう。自らの作品を映画化した監督たちに対して、作家が暴言にも似た言葉を口にし続けたので、デュラス研究者である私はいつだって、舞台化の話を聞くとその度胸に勝手ながら「先を越された」と思ってしまう。そして敬意とともに、いくぶん同情の混じった気持ちで幕が上がるのを待っている。
伊藤全記演出、山口真由出演の舞台「廊下で座っている男」は、デュラス没後27年のときを経て、また未曾有のコロナ禍を経て、上演された。66歳を迎えた作家が1980年に世に出した『廊下で座っている男』は、セクシュアリティーを語(り続け)る短編である。1984年に世界的なベストセラーとなった『ラマン』を準備した作品とも言えるし、その草稿はすでに1958年に遡るとも言われている。1958年と言えば、『ヒロシマ、モナムール』の脚本を準備していたデュラスが、ジェラール・ジャルロと生活を共にしていた時期である。気難しいデュラスが、ジャルロのユーモア溢れる明るい性格のお陰で穏やかに過ごせていたという証言もあるいっぽうで、デュラス自身が語ったところによれば、彼との時間は「とても、とても、とても暴力的でエロティックな経験」だった。1958年に草稿が準備されていたのだとすれば、ジャルロとのこの「暴力的」で「エロティックな」関係が、『廊下で座っている男』の下敷きとなっている。58年から温められていた原稿は、その後1962年に雑誌『ラルク』に掲載される。後に伝説的な登場人物となるアンヌ=マリー・ストレッテルの名がここで初めて明記され、殴打をともなうセクシュアルな関係が描かれることとなった。1980年刊行の『廊下』では、アンヌ=マリー・ストレッテルの名は伏せられた形となっている。
プレイヤード叢書で本作の解説を担当したベルナール・アラゼも、日本語訳を手掛けた小沼純一も、両者ともに本作がポルノグラフィーであると指摘しているように、そこで描写されるのは終始性的な関係性である。「男」と「女」を繋ぐものはあたかも「それ」以外には存在しないのだと強調するかのように、二人の心の動きに触れることは一切ない。だから舞台上の演出を、身体の生々しさに焦点をあてて展開させてみせることだって可能だったかもしれない。しかし、伊藤の演出に迷いはなかった。一人芝居の舞台は、山口真由の「声」を通して、欲望の陰に隠された愛を、あるいは失われた愛を、または生まれることのなかった愛を出現させることに、すべてのエレルギーが注がれているように感じられた。
デュラスの愛には、いつも第三者の存在が不可欠で、三角関係のなかでした成立しないと言われている。『廊下』でも「彼」と「彼女」の間に、突如不自然なまでに「わたし」の存在が組み込まれる。第三の視点が「彼」と「彼女」の欲望を刺激し、セクシュアルな瞬間を背徳的なものにしているという指摘なのだろう。こうした解釈に基づき、デュラスの愛は、エロスとタナトスという二項のなかで語られることがたしかに多い。
『廊下』が刊行された1980年は、作家自身の生活においても大きな転換が起こった時期である。ヤン・アンドレアがデュラスの生活と、デュラス作品の中心を占めるようになる。1975年11月、カーンで『インディア・ソング』が上映された際に、映画館にやってきた作家にヤン・ルメが会っている。ヤンは熱烈な手紙をデュラスに送り続けた。1980年8月30日、彼がトゥルーヴィルのデュラス宅を訪れると、以降ヤン・アンドレアとして後期デュラス作品のなかで幾度となく言及されることになる。しかしヤンは、ロラン・バルトにも同じように手紙を送っていたらしい。後に執拗なまでのデュラスによるバルト批判があったのは、バイ・セクシュアルともホモ・セクシュアルとも言われているヤンを巡る嫉妬心が、作家の理性を奪ってしまったからかもしれない。
デュラスが愛を語るとき自らを見失ってしまうのは、恐らくは『ラマン』で描かれるような幼少期の恋愛が関係しているからではないか。十四歳の頃に、裕福な中国系ベトナム人と肉体関係をもったデュラスが、人種という壁と貧富の格差という壁のなかで、純粋な恋愛関係を築けなかったことは、作家のセクシュアリティーに生涯にわたる大きな傷跡を残したことは想像に難くない。1928年のこの恋愛体験と1958年のジャルロとのエロティックな関係、そして38歳年下のヤン・アンドレアからの手紙に1980年に応えたデュラスが、66歳にして自らのセクシュアリティーと再び向き合う覚悟を決めたのが、『廊下』だったということになるのではないか。ヤンはまた、デュラスが無自覚に抱いていた2人の兄への近親相姦的な気持ちを、デュラスに自覚させることにもなった。
たしかにここで描かれているのは、暴力が伴う性的な関係であって、精神面の描写はすべて削ぎ落されているために、ことさら二人のいびつなセクシュアリティーが強調されてしまう。だからこそ、この演劇を生々しく演出していたなら、リアリティーをデュラスがどのように捉えていたのか、見誤ってしまっていたことだろう。「わたし」という存在は、「彼」と「彼女」の欲情をそそるような背徳の味をもたらす装置などではもはやなく、66歳になったデュラス自身の視線ではなかったか。自らの恋愛を、欲望の一言へと簡略化させてしまう冷酷で自虐的な視線は、人生の軌跡を、愛を、セクシュアリティーを一徹なまでに客観視する66歳の作家自身である。乾いた視点の持ち主は、見えているものを口にする。しかし「わたし」が「彼女に、男がしている」「それ」を口にしても、そのリアリティーに意味はない。『廊下』は、舞台上には見えてこない「あまりに強いこの愛」を出現させようとする、醜いほどまでに必死な年老いた作家の視点にほかならないからである。
デュラスは、執筆活動のスランプに陥っていた主に70年代に、映画制作に取り組んでいる。それまで、自らの原作を映画化していたデュラスが、初めて映画作品をテクストとして刊行したのが『ナタリー・グランジェ』である。孤独を避けるかのように、チームで手掛ける映画制作にのめりこんでいった作家は、しかし1978年に制作された『船舶ナイト号』で認めることになる—映画制作はもう十分に行った、遂にエクリチュールに戻る時期であることを。映像の持つある種雄弁な語りに対して、エクリチュールのもつ弱々しくも、無限なる喚起の可能性と真摯に向き合うことを、作家は腹をくくる思いで受け入れたに違いない。だからこそ、山口の語る「声」に観客が耳を傾けられるよう、舞台上に「見えている」もの以外のものが見えてくるように、伊藤の演出は音を、色を、舞台を成すその輪郭の外へと観客を導く。1981年に制作された映画「大西洋の男」のなかで、長方形のスクリーンの枠外へと出て行くヤンの姿をオフ・ヴォイスが後追いすることで観客の視線が画面の外へと誘われたように、私たちは視線が捉えきれぬ空間に置かれるという体験をする。山口真由の「声」を通して、私たちは語りのリアリティーに触れ得たのだと言えるだろう。