二十年前の言葉と(再)上演を請け負う身体 / 島口 大樹

チェルフィッチュ・岡田利規の代表作とも言える『三月の5日間』は2004年に初演を迎え、翌年には第49回岸田國士戯曲賞を受賞。またその年にはノベライズ作品も発表され、同作を含む『わたしたちに許された特別な時間の終わり』は第2回大江健三郎賞を受賞している。アメリカがイラクへの空爆を開始した2003年の3月20日を含む5日間、ライブハウスで出会った男女が渋谷のラブホテルで過ごすというその物語を、私は小説で繰り返し読み、いつの上演のものだったか、一時期インターネットで公開されていた映像で観劇もしていた。それが、なんと「独り芝居」で上演されるという。

浅薄な知見に拠るものだが、その演劇の特徴として、「超口語」と呼ばれる言い淀みや言葉の重複を孕んだ発話や、言葉が身体からだの運動を規定するのでなく、身体の微細な、また大胆な運動が言葉を誘発するかのような独特な身振りが挙げられるが、とはいえ白眉は、俳優と役柄が対になっていていないこと、その不一致ではなかったか。俳優Aが役柄Aに起きた出来事を語り、次第に役柄A自身として振る舞い、発話し、しかしその関係は固定されておらず、役柄Aは俳優B、Cによっても演じられ、同時に、俳優Aもまた役柄、B、Cを演じる――俳優と役柄の精緻な接続と切断は、『三月の5日間』の上演、かつ「『三月の5日間』という物語の語り」という異様なナラティブを成立せしめる。その達成には複数人の俳優が必要不可欠であるはずだが、その演劇を「独り」で行う試みを前にしたとき、私は何を目にするのかしら、と不安めいた感情を覚えたのは、なにもそれだけが理由である訳ではなかった。

初演時の2004年、私は5歳か6歳で、テレビ画面の中、戦車の進んでいく映像を見ていた記憶はあるが何を想っていたのか、果たしてそれは本当に当時のものなのか。私は同作に触れる度、思い返す度、当時の若者の感覚を鋭敏に切り取った、なんて惹句を目にする度、何から来るものともつかない居たたまれなさを感じる。そして2024年、作中に登場する人物たちと近い年齢である二十代中盤となった私は、遠く離れた異国の地で戦争が起きていることを、殺戮の止まないことを、自分が無力であることを、そして無力感に苛まれることの傲慢を思いつつ、何かを割り切ることもできない頼りない身を会場へと運んだのだった。

北千住にあるアートセンター、BUoY。二階のボウリング場はカフェへと改装され、銭湯であった地下はしかし、浴槽やシャワーなど当時の面影を残す一方、剥き出しの壁面や床、水道管など、廃墟の趣を無骨に晒したスペースとなっている。その壁に向かい合うように座席は並べられ、舞台装置は腰ほどの背丈の棚に置かれた赤く光るラバライトのみ――原作には「舞台セットは要らない」との記述がある。開演時間になると山口真由が現れ前口上を始めるのだが、戯曲の説明に続いて当時の渋谷の風景、何がどこにあって――H&Mがかつてブックファーストであったことを私は知らなかった—と話されるとき、既に上演は始まっていたのだろう。彼女の動きが徐々に人に見せる為の振る舞いへと移行していき、自然とこちらの身体も程良く強張る、見聞きの態勢が整う。

公演写真

 電気が消え、光源が赤いラバライトのみになると妖しさが醸され、眼が暗闇に慣れるより先に、その姿を視認するより先に、彼女が物語を語り出す。が、その声音は冷ややかで、金属的な響きさえある。確かに、語られる言葉自体には原作同様の冗長性があるのだが、まるで誰かに引き千切られているかのように台詞は細切れでおかしみはない。初演当時の社会の雰囲気も知らないけれど私は、ああ、と内心で独語した。あの(もしかするとぎりぎりの)冗長性を下支えしていた何かは、今現在においては既に失われてしまったのではないか。二十年の間で転機となった出来事の数々が思い浮かぶ一方で、それもあまりに粗雑な見立てかと思い直す。当時書かれた言葉を、現在においてそのように抽出、発話することで切り拓ける地平があるのだろうと、モノローグの緊迫がこちらの身体の強張りを助長する。気付けば食い入るように視線を舞台へと、何事かによって・・・・・・・顕わになったコンクリートの上へと遣っている。

公演写真

 テキストレジされた物語は至ってシンプルで、ラブホテルで五日間を過ごす男女のパートと、二人のいる渋谷で行われているデモのパートに別れ、後者が始まると山口は仮想の舞台から飛び出し、客席の背後をゆっくり回って会場を一周し、再び戻って来る。その間も当然、モノローグは続く――声は言葉は、そこからもあそこからも聞こえる。照明が点き辺りが見通せるようになった舞台で、彼女は男女の会話を語りながら、陰となっている会場の隅から椅子やローテーブル、間接照明を運び、ラブホテルの一室、その一角のような、(おかしな言い方だが)舞台めいたフィクショナルな空間を創っていく。その体裁が整うと再び辺りは暗がり、間接照明とラバライトのみが光る――そして山口は逆光で影になる—演出が為される。そこで交わされる男女の会話はこのような内容だ。初日から数えて五日後、ホテルを出たら、戦争は終わっているんじゃないか。テレビを点けて、「あ、戦争終わってるー」とか思うんじゃないか。「あいつの言った通りだ」とか思ったりするのではないか。そう語る山口の声は硬質でどこまでも冷たい響きを伴い、私はほとんど戦慄を覚える。戯れの男女の会話が、まるで呪詛か何かのように発されることへの強烈な違和は翻って、そのように発することを強いる今現在へと結ばれる。二十年前、外では戦争が、デモが起こっている間、隔離された空間で交わされる稚気に満ちた軟派な祈りは、今ここにあって危うい呻きに聞こえだす。

 主だって登場する男女と、デモに参加する二人の男、四人の台詞の発声に差別化は行われていない。冷たい響きは時に日常会話のそれとも聞こえる声音に転じるが、あくまで淡白な発話が通底している。岡田の演出では随時俳優と役柄が接続/切断され、それに伴って役柄が固有の声を持つことはない。発される声は、彼/彼女を(その時)演じる俳優に依拠する。端から個々人による演じ分けがなされない戯曲を「独り」で演じてみせる時、必要なのはそれらの差別化ではなく、むしろ徹底した一元化になるのだろう。役をその身に憑かせるのではなく、俳優にも役柄にも依拠しない、ごろりと転がった言葉をのみ打って響かせる。その時、山口の身体そのものが上演の場となり、舞台は上演の上演とでも呼ぶべき様相を呈する。

 ホテルを出たら戦争は終わってるんじゃないか、そんなやり取りの後も、男女はだらだらと会話を続ける。それらを語りながら山口は、彼女自身の手によって拵えられたホテルの一室めいた舞台装置、その手前で徐々に四肢をくねらせ、日常の、平時の・・・それとは言い難い、けれど一般的にはダンスとは呼ばれないような緩慢な動きをはじめる。そこで赤や青、緑の照明が、ミラーボールのように辺りを照らしだす、彼女は緩慢なままにその動きの振幅を広げていく。四肢の先を床につけ身をよじらせては、頭上から圧されているかのように鈍く立ち上がる。時折跪き、腹ばいにもなる。舞台装置が生むフィクショナルな空間と、それに似つかぬ身体のひずんだ運動、その場を照らすのは派手ではあるもののどこか陳腐な色彩――それはラブホテルと言うより、カラオケに設えられた光に似ている。発散を促す点滅、現実との皮膜となる軽々しい夢幻。いつからか優雅なクラシック音楽が流れており、また山口の声にはエコーがかかり、それぞれの要素が互いに反発しながら上演・・は続く。反響するモノローグは、まさに遠くからの呼び声に聞こえる――二十年前からの。言葉は決して、その歳月を飛び越えてやってきたのではない。潜り抜けてきたのだ。それらを宿し、上演の上演を請け負う身体は、その動きは、危うく軋む他ないのだろう。現実と虚構の対立を巧妙にずらされた空間で、過去からの声に言葉に耳を傾け、その歳月の重みで均衡のままならない身体を、歪んだ運動を眼前にして、私もどこか遠くへと、例えば私の知らない渋谷の風景へと、更にはテレビ画面の中で虚構化されていた戦禍の景色へと、繋がる通路に立たされたような、どちらかと言えば不快の勝る緊張が走るのだった。

公演写真

 五日間の非日常がほどけ、あまりにもあっさりと男女が分かれたところで幕は下りる。後世にいる私たちは、その時点で戦争が終結していないことを知っている。私たちが生きている今現在においてはまた別の戦争が続いている。前口上では、こんな話が引き合いに出されていた。以前暮らしていた家を見た時など、今でも自分がそこにいるのではないかと思えてくる。そんな想念が頭を掠めると、今の自分がそこに住んでいる自分なのか、他所からやって来た自分なのか、過去と現在が覚束ないような感覚に陥る、と。即時の終戦には至らなかったイラク戦争の経過を横目に見ながら男女は、未だラブホテルに閉じ籠っている、いや幽閉されている自分たちを想ったのではないか。そんな問いは、すぐさま私たちに還って来るだろう。「あ、戦争終わってるー」との背筋を凍らせる響きは、観劇後しばらく経った後も、自宅でこの拙文を認めている今でも鼓膜にこびりついているのだが、同時に、荒々しい壁面に囲われじっと座り込み、盲目的に何かを祈念している自分を、どこかに置いてきてしまったような気がしてならない。そこが災厄の中ではないと、言い切る根拠もない。

島口大樹(小説家)

1998年、埼玉県生まれ。2021年、「鳥がぼくらは祈り、」で第64回群像新人文学賞を受賞しデビュー。同作が第43回野間文芸新人賞候補となる。ʼ22年、「オン・ザ・プラネット」が第166回芥川賞候補に。著書に『鳥がぼくらは祈り、』『オン・ザ・プラネット』『遠い指先が触れて』がある。