ラヴァライト、まさしく溶岩(Lava)のように真っ赤なスライムが、縦に長細いロケットのような形の容器に満たされた透明な液体の中でゆっくりと浮上し、しばらく上部に漂ってから沈んでゆく。永遠を想わせるその上昇と下降の繰り返しを下部にある光源が照射している。そんな照明器具が花台のような什器に置かれているだけの舞台に、ひとりの女が出てきて挨拶を始める。

この挨拶の部分はまさに、わたしがかつて六本木にあったスーパーデラックスで観たチェルフィッチュの『三月の5日間』を思い出させるようなスタイルであった。『三月の5日間』は彼女の説明にもあったように「超リアル日本語とも形容される現代口語と、日常的な所作を誇張するかのような身振りを特徴としていて、当時の日本の若者の感覚を等身大にとらえたと、絶賛された作品」なのだが、話法は日常会話のようでいて、延々と続く伝聞調や過剰な繰り返しは、明らかに意図的な不自然さを纏っていた。だから「超リアル日本語」の「超」は「すごくリアル」という意味ではなく、どちらかと言えば、平田オリザや岩松了たちの「静かな演劇」のような「とてもリアルな日本語」での演劇を「超」えていくような演劇であったのだ。
今回の7度による公演は、間違いなく現代日本演劇の一つの転換点であった『三月の5日間』を20年後に捉えなおす試みなのだろう。紹介文には「7度ではこのたび、『無名なる「わたし」の文化史』というプロジェクトを立てました。おおよそ1990年代から2020年代にわたる、そろそろ「歴史」としての雰囲気を帯びてきた30年間を、上演を通して見つめ、次の時代への希望を想う連続企画です。本公演はその第一作となります。『三月の5日間』に描き出された、遠くの「戦争」への距離感や、醸し出される不安、とらえどころのない現実感は、20年後のわたしたちに、何を問いかけるのか、その中を生きた無名なる「わたし」は、どんな足あとを残してきたのか。劇場にて、想いをめぐらせていただけたら幸いです」と記されていた。
映像が残っているから当時の上演の再現もできたであろうが、手法をコピーするというものでもなかった。それでいて、『三月の5日間』以降に湧いて溢れた「なんちゃってチェルフィッチュ」とは異なり、原作への敬意を強く感じる舞台であったのだが、それは一体どういうことだったのかしばらく考えつづけている。
そのことを語るためにも『三月の5日間』とはどんなものだったのか記しておこう。
イラク空爆が始まる直前から5日間を渋谷のラブホテルで過ごすミノベとユッキー、二人が出会うきっかけとなったライブにミノベを連れてきたアズマ、彼がハンドルネーム・ミッフィーちゃんとそのライブで再会したかもしれなかったことを話して聞かせた友人のスズキ。それから、ミノベとユッキーが遭遇したデモに参加していたヤスイとイシハラ。マツキヨでコンドームを買っていたミノベたちと「超立体」マスクを買いに来たヤスイはすれ違っていたかもしれないし、そんな風に登場人物たちは緩やかにつながっているが、結ばれることなく並べられていく。
「ミノベって男の話なんですけど」というように語っているかと思えば、ミノベとして話しているときもあり、次第にほんとうは誰が誰なのだか、伝聞なのか、いややはり独白だよな、と観る者は確信を持てなくなっていく。節目にあらわれる「○○の話をします」とか「○○の場面をやります」とかいう“中断”や、自然な語り口を装いつつ人称をブレさせ不自然な身体の動きを伴いながら語る人たちは、劇世界への没頭を許してくれない。なのに過剰な繰り言はダビングによって膨らませていく音楽さながら、観客の記憶へ物語を静かに堆積させていく。
観客は日常と非日常との侵蝕しあう不安定なところに止め置かれる。いや、そもそも観客という特権的な立場を奪われてしまっていると言ってもよい。そのようにして、演者や観客にも不自然で宙ぶらりんな状況を与える岡田は、点在させた人々や物語の断片をラストに向かって収斂もさせず、物語自体にもわかりやすく完結するような安定を与えはしない……
俳優の山口真由が一人で演じるのは7度のいつものスタイルのようだが、原作は7人の俳優で演じられていたこともあり、演出の伊藤全記によりいくつかの省略がなされていた。

その中でも、「ミッフィーの部屋」「ミノベが言わなかったこと」「ついに語られないスズキ」といったシーンは、この作品を稀有なものとしている欠かせない要素だと感じていたため、いささか残念にも思えた。これらはいずれも観る者をさまざまな角度から揺さぶってくるシーンなのだが、いかなるものであったのか。そしてそれらが省略されたことの影響はあったのか。どうして省略されたのか。そもそもほんとうに省略されていたのだろうか……
ライブで出会ったアズマにメアド/ケータイ/自宅の電話番号のいずれかを教えてほしいという強引な三択を迫って見事にフラれたミッフィーちゃんは、代わりにもらった限りなくウソくさい彼の「住所」に手紙を書く決意とともに、もし「宛先不明」で返ってきてしまった際にも精神的にヘルシーでいるために、きっとそこまでは転送されないであろう火星へと旅立とうと日記に綴る。実家の自分の部屋を宇宙船なのだと強く信じこんで火星行きを語るミッフィーちゃんの妄想が、観客にも上演空間の外が先ほどまでいた自明な世界ではないかもしれないという微かな揺らぎをもたらす。
ミノベは「これからもそしていつまでも、みたいなの、やりたい?とか思わないでしょ俺と」なんてことを、ヒリヒリするくらいセックスを繰り返したうえで、「5日間限定の関係にしよう」という話の流れで言い放つ。さらに、「いつまでも系」のランクが、自分たちが選ぶであろう「5日間限定」の関係と比べて上だなんてことは絶対ないじゃない? と自己弁護みたいなことを言う。さらにミノベは「いつまでも系」が上でないと思えたならば戦争なんか起こらないんじゃないかと口にするのだが、名も知らぬ相手の女性にはそれを話さなかったのだと、直前まで話しかけていた彼女にではなく、アズマに向けて語る。「鉤括弧」だと思って聞いていた言葉が(丸括弧)にくくられていたと後で気づくような違和感が、かえって観る者たちの中にミノベの想いを滞留させる。
「休憩の前にスズキくんの話をするって言って休憩に十分(じゅっぷん)入ったと思うんですけど、(中略)これからもうすぐやっとスズキくんの話にいけるかなっていう感じなんで、っていうのを今からやります」このように繰り返し言及したにもかかわらず、結局スズキの話は語られずじまいなのであった。20年前にはたしかそんな言い方は無かったように思うが、近年その巧拙が作品の出来を左右しているかのように見なされうる「伏線回収」というやつの真逆で、なんともカタルシスをもたらしてはくれない。
あらゆる手を使い執拗に試みられるこれらの揺さぶりかけは、自らの表現を単なる作品として消費されることの決してないようにとの岡田の切実な想いの表れに見えたのだが、20年を経た上演でそれらが省略されたのは、伊藤たちにその切実さが伝わらなかったということなのだろうか。
もちろん、山口が一人で演じている今回のスタイルでは落語みたいな一人語りで、そもそも複数の人物を語ったり演じたりすることになるためそのまま再現してもあまり有効ではないだろうとか、世相の変化による見え方の変化などを意識して省略を判断したものもあっただろう。たとえば、ユッキーがホームレスを犬と見間違えるシーンはもともとの上演では男性の俳優が演じていて、その違和感にダメ押しをするかのように途中ゆったりと時間をかけて彼はリップを塗るのだが、山口真由がそれをやっても効果は薄いし、いまどきリップを塗っても女性を表せるかは疑問であるし。「僕、メガネかけてて目が悪いんですけど、だからかな?ってのもあるんですけど、ホームレスだったって話で、それで僕、僕じゃないんですけど、ユッキーって女の人は」というセリフは残されていたが、たとえ複数人で上演していたとしても、初演時にハッとさせられたほどの効果は見込めなさそうで、リップのシーンのカットは、さもありなんと思えてくる。同様に、7人の俳優が7人の登場人物とぼんやりとリンクしているように見えてきた元の上演において、ついにスズキのことが語られないというのは、俳優はなんらかの役人物を当てられて登場すると思いこんでた20年前のわたしには衝撃であったが、今や目新しくもないとも、一人芝居では効果が薄いとも言えるのかもしれない。
ただ、それでも7度の二人は原作の企てた途方もない試みを深く解したうえで、敬意を持って上演していたと思う。遭遇する以前と以降の「世界の見え方を変えてしまう度合い」をもって芸術の威力を測るのであれば、演劇史というか芸術史に刻まれるに違いない『三月の5日間』。その逃れようもない大きな影響を受けた幾多の上演の中で、7度によるものはチェルフィッチュのそれとはまた異なった方法で観客に揺さぶりをかけ、了解や消費を拒もうとして、それに成功していた稀有なものの一つだと思っている。
そう確信したのは、これまた20年前の上演でのとても重要な演出とは異なるアプローチで締めくくってみせたラストシーンだったのだが、その話に行く前にもう一ヶ所だけ言及してから、最後の部分について語ってこの論考を終わらせたいと思う。
現実社会にシラケ切ってしまっている若者に思えたミノベが、「いつまでも系」が上でないと思えたら戦争なんか起こらないんじゃないかとふと思ったというのは、時代の渦中にいた20年前のわたしにはまさしく一縷の望みに感じられた。シラケているというのが、何かに拘泥しないどころか、「自我に固執しない」とか「絶対的真理を欲しない」という境地に通ずる気さえした。「いつまでも系」のそこはかとなく帯びる「正しさ」を疑えれば、たとえ相容れない考えを持つ存在であろうが、殺そうとまで思い至らないのではないかと。
「そろそろ「歴史」としての雰囲気を帯びてきた30年間を、上演を通して見つめ、次の時代への希望を想う連続企画」なのだという今回の上演におけるミノベがそう思わなかったのは一体どういうことなんだろう。もしかするとそれは、事ここにまで至ってしまった現代において、希望を想うためにはもっとシビアに世界を省察しないとならないということなのかもしれない。
たしかに20年前よりも「正しさ」は曖昧になって「いつまでも系」は疎まれたり揶揄されたりする世の中になったかもしれないが、相も変わらず戦争は起こりつづけているではないか。強い信念に基づき互いに譲れないから衝突するというだけであれば、「いつまでも系」の正しさを疑って緩めることで決定的な衝突が回避できるかもしれなかったのだが、それはあくまで戦争のための方便でしかなかったのではないか。そして、持てる者たちの覇権争い(時として金儲け)のために持たざる者たちが殺し合いをさせられているのではないか今も、あの時も。
25歳になってイラク戦争が始まった時だって「なんでこんなラブホでうんこみたいなセックスしてるんだろう」って思ったミノベは、阪神淡路大震災の起こった時にも高校で「うんこみたいな授業」を聞いていることに罪悪感を覚えていたと語る。
25年たっても相変わらずアラブの子どもは殺され続けているし、30年たっても被災した人たちの命が最優先で助けられるなんてことにはなっていない。理不尽な運命がみなに等しく降り注ぐのであれば悲劇の出番もあるのかもしれないが、もはや取り繕うことさえしなくなった権力者たちによる人災のせいで理不尽が偏在する現代、20年前にはまだ幼かったであろう伊藤たちが、ふと「なんでこんなにされてしまった世の中で「うんこみたいな演劇」を続けているんだ」と思ってしまってもおかしくはない。にもかかわらず、奇特なことに彼らは「次の時代への希望」を掲げてくれている。
『三月の5日間』からのさまざまな働きかけによって、自他認識や「正しさ」を揺さぶられたとしても、ひとたび外に出れば「クソみたいな世界」なのであった。20年前の上演の際には、ユッキーが渋谷について「あ、もうだめかな、感覚、普通の渋谷っぽく、いったんもう駅まで来ちゃったからなっちゃったかな?」と嘆いているのを聞きながら、わたしもどこかでこの不思議に心地よい違和感に満ちた劇世界での感覚が、スーパーデラックスを出ちゃえば消えてしまう予感がして寂しくなり始めていた。そこへ、岡田たちにそれを見透かされたかのようなラストが用意されていた。
演者が「三月の5日間の最後の朝に銀行で男が金おろして、っていう、女のコがそれを待っているっていうのを今からやって、それで『三月の5日間』を終わりにします」と告げると暗転し、明転するとそれまでラフな格好をしていた女は三月の朝に似合うような厚手の衣装を身にまとい、バッグをさげて立っている。そこに男がつかつかとやって来て女に金を手渡し二人は退場する。その間わずか十数秒。「はい」「はーい」「じゃあ......って、駅まで一緒か」ここで初めて演者たちはいわゆる「リアルな演技」をする。会場の外へ出ればそこここに見かける光景。わたしは虚をつかれ、劇場の中という非日常で観ていたフィクションを、劇場の外の日常へ接続する岡田の強い意志を感じたのだった。
それに比して、今回の公演でのそのシーンでは、山口は衣装を替えることもなく、幻想の一コマのように少し間延びした話法で、さらりと演じて終わらせてしまった。すこし物足りなさを感じながら彼女が会場から出ていく背を見送る次の瞬間、わたしたちも入ってきたドアを彼女が開けると、外は真っ赤な空間で満ちていたのだ。

それは、この上演の間、他のすべての照明が消えた際にも絶え間なく灯りつづけていたラヴァライトの赤であった。上演時間の半分くらいがほぼラヴァライトのみの照明であったり、デモなどのシーンで山口が客席の後ろ側に回ってしまったりして、わたしたちはおのずと赤い塊がゆったりと昇降する様を見つづけることとなった。そのせいもあってかわたしには、シーンごとにそれはいろんなものに連想させられていた。戦争や空爆という言葉から「血」を、赤い塊の延々と巡りつづける様から「生命」や「輪廻」そして「歴史」を。それはまとまって大きな一つになったかと思えば、ちぎれて細々と分散するため、デモにも見えたし、ミノベとユッキーが雑踏へそして駅へという場面では、都会の人の群れにも感じられた。そんな種々様々なイメージが、ドアを開け山口が出ていくわずかな時間に押し寄せてきたのだった。
ああこれは「ミッフィーちゃんの部屋」だと思った。20年前に宇宙船になったミッフィーちゃんの部屋に居合わせて火星に向かっている感覚が啓けた時のことがよみがえった。この部屋の外の世界は溶岩のような赤い塊の中にあり、生命の循環や歴史の営みのように巡りそして流れゆく。その永遠を想わせる繰り返しの一粒がミノベやユッキーであり、くっついて塊となりまた散り散りとなる束の間があの5日間だったのかもしれない。そしてこの夜たまたま集い、居合わせた後に各々がそれぞれの帰路へつくわたしたちもまた、あの赤い塊の中に在ったということか。
岡田利規による最後の場面の演出が観客の世界の見え方を変えようとしていたのだとすれば、その意志を受け止めた上で20年後の今、より根底から揺さぶるために、7度のラストシーンは観客の世界における自らの存在の感覚までも変えようとしていたように思えた。
できることならば、あの真紅の中を潜り抜けて元の世界に戻りたいほどであったと思い返している。「クソみたいな社会」の構成員で「クソみたいな歴史」をつくっている一人でもあると自覚するところからしか、わたしたちは「次の時代への希望」を探ることができないような気がしているから。
1973年3月生まれ。演劇ライターとしては、劇団ハイバイなどのツアーパンフレット、演劇誌「紙背」や「東京芸術祭」のウェブサイトに劇評などを書いてきた。「障害×アート」については『はじまりの美術館 社会福祉法人が手さぐる地域とアート』(左右社、2025年)などへ寄稿。師匠の栗原彬(政治社会学)との対談が『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載されている。