『胎内』の自由

赤坂太輔 (映画批評・映像論)

私の専門の映像について言えば、作品が始まるのは映写が始まる瞬間からだと断言できる。
だが演劇の始まる瞬間はどこからなのだろう。たとえば『胎内』の上演とは、どこから始まっていたのだろうか。主演女優の山口真由が席についた満員の観客に向かって挨拶を述べ、徐に芝居とは始まると集中を要するものだからと一緒に準備運動をしようと呼びかける瞬間からだろうか。あるいはその後でしばしの沈黙の後で芝居の効果音らしき音がスピーカーから流れてくる瞬間か、あるいはもっと前の、劇場の入り口が開いて受付の人々が客に入場時間を告げるときなのだろうか。こんなことを考えるのも、そうしたことを考えさせる映画をしばしば見ているからだが、しかし例えばポール・クローデルの戯曲作品をマノエル・ド・オリヴェイラ監督が映像化した『繻子の靴』の冒頭のように、劇場の支配人がカメラに向かって口上を述べて入り口を開放し客入れが始まり、やがて舞台に用意されたスクリーンに映写される芝居が始まっていくにしても、それはフィルムの映写が始まってからのことだから、少なくとも観客にとっての現在との混同はありえない。だが『胎内』で山口氏が準備体操を観客に呼びかけた時、そんなことを考えたのは、客席に座ったまま当惑しつつおずおずと身体を伸ばしながら、これから始まる舞台が、いつどこから始まるのか、いつどこまでなのかという「境界」への問いを観客に投げかけ続ける劇となることをこちらが予感しつつあったからであろう。あるいはこの体操の時間が、今このステージ上に設えた舞台装置による時空間を、スマートフォンを眺める観客に、受け入れるという約束事への準備をさせる時だったからかもしれない。

 

 

こまばアゴラ劇場前景

 

 

『胎内』は、本来は戦時中に掘られた横穴に入り込んで閉じ込められてしまう男女ともう一人の男を描く1949年の三好十郎の三人芝居であり、その場所から出られないという以前にすでに心理的閉塞状況から出ることができない三人が物理的「閉じ込められる」不自由を描写する作品だが、私の拝見した7度版ではまず主演の山口氏が一人で女ひとりと男二人を演じることによって、その声色が使い分けられることでどこからどこまでが一つの役なのかの問いがあり、そして同じ舞台でありながら洞窟とアパートの一部屋という二つの場所の交替があること、その少なくとも最初はその日時が不明であることによって、いつどこで起こっていることなのか、どちらが前か後のことなのかといった問いが、見ている観客の心の中に生まれてゆく。それは17世紀にカルデロンの「人生は夢」が上演され、幽閉された王子の身体は城と刑務所を往来するが本人はどちらが夢ともわからない、という描写がおそらくただ一つの部屋と背景の交替で表現された時に、スペインのバロック演劇がジョルジュ・メリエスからマルチバースSFまでの映画を先取りしていただろうことを思い起こさせる。

 

 

「胎内」舞台写真
撮影:水本俊也

 

 

そのいつなのかどこなのかという「非決定性」、それはミニマムな予算を逆手にした1960~70年代の映画が、そのフィクションの中にいくつもの境界線を引いて、先程書いたような演劇から引き継いだ装置や、カメラを動かすことや見せることと見せないことの選択のフレームワークや、現実にはありそうもない連続を作り出す編集といった手段で出現させたのだが、先述したとおり、それは上映が始まる瞬間を前提にしてのことだ。演劇である『胎内』の場合、何よりもまず山口真由の声色、とりわけ寝たり転がったりその姿勢を引きずったりしたまま台詞が語られる時、奇妙なことにとりわけ現代の女性映画監督の多くが被写体にする「寝る姿勢での語り」と共通点を持ち、さらにそれが聴く観客をしてよりマイクロトーン&サイレンスの世界から怒声と音楽への振れ幅のある虚構へと、さらには暗転=ブラックアウトのもたらす時間の前後感覚の喪失が、いっそう物語を断片的にする。だがその語りの断片化こそが、演じる身体と声の存在を観客の想像力と直接の出会いを組織する演出・伊藤全記の狙いだったのかもしれない。

 

 

「胎内」舞台写真
撮影:水本俊也

 

 

「どこから」を映写の瞬間からと限られている映画が演劇を羨望するのは、その「どこから」さえもはっきりせぬままに帰路に就く時間を与えられうることにあるだろう。劇場の出口ですれ違った人々が停車している救急車を見ながら「芝居の音だと思っていたのに」と呟くのを耳にした。それはおそらく洞窟の中で演じられる絶望に対して希望のように聞こえたのだろうか。それとも遠ざかっていくことで再び迫ってくる闇をひたすら深めるように聞こえたのだろうか。それはあるフランスの作家が「車の多いニューヨークの二番街でマルグリット・デュラスの映画『トラック』を映写すると走行音が映画館の外なのか内なのかがわからない」と述べたことと似ているが、定着された反復可能性のない音との出会いは、よりいっそうあやうい、あわいながら、観客に正反対の情をもたらしえたのではないだろうか。記録することで身体を救うと考える映像媒体の方が、消え去っている舞台について、最も羨望するのはこの時かもしれない。