『胎内』に閉じ込められた潜在力――7度の一人芝居に示唆されるもの

平田栄一朗(演劇学・ドイツ演劇研究、慶応義塾大学文学部教授)

 2014年に結成された演劇ユニット7度の『胎内』(三好十郎作)は、2021年兵庫県豊岡で開催された演劇コンクールへの参加作品で、演出担当の伊藤全記が優秀演出家賞を、俳優の山口真由が優秀演劇人賞を受賞した。この上演は戯曲をテキストレジ化した台本に基づく山口の一人芝居であるが、7度は2022年、3名の俳優による同戯曲の舞台化を富山県利賀村の演劇祭で披露した。

 

 

「胎内」富山公演写真2022年『胎内』富山公演(撮影:bozzo)

 

 

 一人芝居の『胎内』は2023年12月、駒場のアゴラ劇場で再演された。筆者はその際7度の『胎内』を初めて見たが、現代の古典とも言えるこの戯曲のアクチュアル性を引き出すと同時に、一人芝居の醍醐味をも実感させる上演だった。7度の舞台設定は、戯曲に描かれる終戦直後の実情というより、現在の日本社会を示唆しており、また一人芝居という設定によって、戯曲に描かれる3人の人物像を強く浮き彫りにするわけではない。しかし7度の一人芝居は戯曲の設定から距離を置くことで、戯曲から読み取れる戦後と現在の共通項を引き出そうとしたように思われる。以下に、まずはこの戯曲について――戦後演劇を代表する戯曲の一つであるにもかかわらず、広く知られていない以上――紹介した上で、7度の舞台について論じる。
 
 終戦から4年後の1949年に発表された三好十郎の『胎内』は、戦後の日本社会がその前までに起きていた戦前戦中の出来事を深く省みることなく、民主主義と文化国家を標榜して再出発したことに「そのままでよいのか」と問い直した戯曲である。『胎内』は、戦後まもなく発表された太宰治の『トカトントン』(1947年)などと同様、戦前、多く人々が軍部の進める戦争に強く抵抗することなく時流に流されたことや、男性女性の間や経済間における不公平さが極まりなかった格差問題をなおざりにしたまま、自分の置かれた状況に合わせるだけで生き延びようとした姿勢を問い直した作品である。戯曲においてこの問い直しは、終戦直後の社会を背景にして、戦中、軍部によって掘られた塹壕跡(洞窟)の中に閉じ込められている3人(村子、花岡金吾、佐山富夫)の台詞を通じて示唆されている。

 3人が洞窟に居合わせて自分達の過去を振り返るきっかけは、戯曲において巧みに仕組まれている。村子と花岡は、台詞内容からして恋人同士というより愛人関係のようであるが、二人は旅に出て山中の洞窟に入り、逢瀬を楽しもうとする。その洞窟は戦中に日本軍によって掘られた塹壕跡であったが、この塹壕を掘った兵士たちの一人、佐山は終戦後もこの洞窟に身を隠すようにして密かに生きていた。村子と花岡は思いも寄らぬ形で元兵士と出くわすことで、3人は戦前から戦後の今にいたる自身の身の上を語り合うことになる。

 語りから分かるのは次のようなことである。村子は貧困家庭に育ち、一家を養うために職を転々とせざるを得なかった我が身の境遇を恨みつつ、戦後の今、曲がりなりにも自立して生きたいと考えている。花岡は紡績工場の交渉役として軍部に接近し、軍需産業で財を築いた。佐山は社会に蔓延った貧富の格差を解消すべく労働運動に身を捧げていたが、転向を余儀なくされ、その後、召集されて過酷な軍隊生活を強いられ、戦後は妻から見捨てられるようにして洞窟暮らしに入った。

 洞窟内で3人は、普段なら口にすることのない身の上について語り合うが、そうする間に地震が起きて洞窟の入り口が塞がれて、3人は外へ出られなくなる。こうして3人の語りは、戦後社会という表舞台に響き渡ることなく、生き埋めにされてしまう。

 7度の一人芝居は戯曲の台詞や設定をずらすことで、三好十郎が戯曲で人々に突きつけた「そのままでよいのか」という問いかけを示唆的ではあるが、観客に思い起こさせるものとなっている。7度の舞台は、戦後直後というより、現代を思わせるものであり、洞窟というより、社会の片隅でひっそりと暮らしをしている女性の部屋を思わせる。そのような女性を演じる山口は上演中、部屋着姿や下着姿になったり、外出着に着替えてスーツケースを抱えたりするが、部屋から一歩も出ることはない。山口はあたかも部屋に閉じ込められたかのようにして、村子や花岡、佐山の台詞を語っていくが、その姿を見続けていると、山口が演じる女性は今でもコロナ禍ゆえ閉じ込められているかのようにして孤独に生きているようにみえる。さらに言えば、女性は、コロナ禍での規制ゆえ舞台活動を封じ込まれた俳優の実情を暗示しているように思えてくる。

 

 

『胎内』舞台写真撮影:水本俊也

 

 

 山口はときに村子、ときに花岡、ときに佐山の台詞を――声色に絶妙な変化をつけて――演じ分けていくが、その巧みな演技から察するに、閉じ込められたようにして生きる孤独な女性が精神に支障をきたして、多重人格者のようになって3人の人物の語りを語るわけではない。むしろ、ある俳優が、コロナ禍がなければ舞台に立って観客に披露する巧みな演技を――村子の台詞にあるように――「私がこんなところで、こんな目にあっているなんて[…]だあれも考えてはいない」自室の中で密やかに示しているようである。7度の舞台の観客は、戯曲に示される戦中戦後の実情を、コロナゆえに封じ込まれた俳優の置かれた状況に重ね合わせるようにして見届ける。

 コロナ禍を耐え忍んで生き延びた私たちは、現在、元に戻りつつある日々の暮らしを実感しつつ、未来へ向けて再出発しつつある。それは確かによいことである。しかし7度の『胎内』を見ていると、私たちはそのままでよいのか、少し前に起きていたことをもっと重く受け止めるべきではないかと問いかけられているように思える。

 

 

「胎内」舞台写真撮影:水本俊也

 

 

 7度の一人芝居は、この問いかけに対する一つの指標を示唆していたように思われる。山口が村子、花岡、佐山を一人で演じていくことで、戯曲に読み取れる3人の共通項が浮き彫りになる。それは、立場も境遇も異なるが、自分に本来備わる可能性を有意義に発揮して生きたかったが、戦前の事情ゆえ、その可能性が閉ざされてしまったか、間違った方向においてしか生かされなかったという点では3人は同じである。山口は3人の登場人物を巧みに演じ分けていたが、それは、抑制を効かせながらも、観客席に響き渡る力強い声の使い分けによってであった。それによって山口は3人の個性を演じつつ、3人に共通する秘めた潜在力を示唆していた。3人に備わる潜在的な可能性の行方は、その時々の社会情勢によって左右されるものである。社会の再出発に際して発せられる「そのままでよいのか」という問いかけに応答できるとしたら、それは、個々人の潜在力がしっかりと生かされるような社会を目指すことにあると言えるかもしれない。

 7度の舞台はそれを明確に促しているわけではない。しかし洞窟、あるいは部屋の中に響きわたる山口の印象深い語りは、洞窟や部屋の中に閉じ込められた『胎内』の3人の、ひいてはコロナ禍で演劇活動を封じ込められた演劇人たちの潜在力を見つめ直してほしいと観客に示唆していたように思えるのである。