71km(近藤智美)

2026年になってしまった。気持ちのうえではまだ2025年をちゃんと終わらせた実感もないまま、なんの断りも無しに数字は移行し、ともかく無事に新年を迎えることができた。実家がある広島から東京に戻ってきて、やや広島に偏った頭で本日1月9日、7度版『東京ノート』を観た11月29日の40日前の記憶と、それに付随して浮かび上がった個人的な記憶とをロードしながら書いてみたいと思う。

私は今まで演劇というものを生で観たことがなかった。それが、突然、7度さんからのお誘いで、今回の平田オリザさん原作『東京ノート』を観劇後、トークするという全く予期せぬご依頼を受け、何も分からないまま空の体を運んだ。空っぽで挑んでよかったと思った。舞台を観て、なぜ自分が呼ばれたか、演出家の伊藤全記さんの狙いが掴めてくると同時に、なるほど、これも全て最初から仕組まれた演出だったのかと。演劇でこの30年を振り返るという企画と、時世の数字の一致に唸ってしまった。

それは知らぬ間に始まっている。舞台は、近未来の美術館のロビーで繰り広げられる群像会話劇なのだが、山口真由さんの、鍛錬を積んだ人特有の声色で、複数人を一人で演じ分けている事が分かる。それは機械的で、発話する口が開いたあと遅れて音がついてくるような独特の声だった。冒頭の「カメラ・オブスクラ」の説明から、レンズを覗き込むように硬質な空間が立ち上がっていた。一歩の動きすらオーラをコントロールしているようなその精度に、わずかな動きで多くを現す、利休の茶室の思想運動が頭に浮かんだ。山口さんだけ別の重力の中にいるようだ。と思ったら、こちらの観客側にも重力がかかっている。淡々とした日常会話劇から、シームレスに戦争が浮かび上がり、それはこんな風に侵入してくるのだ、とでもいうように現代に繋がる不安を誘発させる。遠くのヨーロッパで起きている戦争。その避難措置で、日本の美術館にフェルメール作品が大量に運び込まれ展示されているという設定は、絵をやっている者としてはあまり現実感がないよ、とも思ったが、この劇においてフェルメールがとても重要な役割を担っている事が分かる。

まず、フェルメールは日常を描いた画家である。オランダのパトロン向けに部屋に飾るサイズの室内画を、静謐、的確な筆致で描き、カメラ・オブスクラを用いた箱庭的世界が、日本人に好まれているのだと認識していた。1mmも動かせない完璧な構図の中のモデル達は、演技をしていない、というかする気がないように見える。私は常々、西洋の歴史背景を元に描かれた歴史画の登場人物のダイナミックな演技を、そのまま日本人に移植した際、演技に無理があるように感じていた。そもそも他国から受けた影響を、アレンジする事で成り立ってきた日本に歴史画は向いていないのではないだろうか。対してフェルメールの絵の人物は、切り取られた完全な室内空間で、白い光の粒のハイライトに覆われ前景化してこない。カメラ・オブスクラの使用による像の統一感だろうと思うが、それが時代を超えても古びて見えない理由でもある気がする。ともあれ、フェルメールがこの舞台の日常を演出するのにちょうどいい画家であると同時に、カメラ・オブスクラというテクノロジーが想起させる近代の戦争につながっていく装置にもなっている。しかし、この登場人物達はどうしてこんなにも軽く戦争を語るのだろうか。この語り口は、テクストが書かれた1994年のリアルな戦争への距離感だろうか。

「戦争はんたーーい」山田裕子さんの、感情を排除したトーンとボリュームが一致していないような低い声が舞台上に鳴り響き、私は、昔見たあの場面のことを思い出した。

東京ノート公演写真撮影:水本俊也

「なんも知らんくせにしゃべるな!」

広島の平和記念資料館のロビーで聞いた、おじいさんの怒鳴り声だった。図書室に向かおうとしていた私はびっくりして声の方を見た。おそらく原爆を体験した方か、身内の方だろう。こんな展示をして見せ物にするな、それは広島の人の内部にあった複雑な怒りだ。受付の人はとても困っていて、おじいさんは責任者に連れて行かれた。今思えば、改修前の資料館は展示室に怒りが充満していた。その空間を取り巻く空気自体が、小学生の私は怖くて怖くて仕方なかった。

広島では、1970年頃から平和教育が始まり、8月6日の原爆記念日には夏休みに登校し、戦争映画を観る平和学習がある。登校日が8月5日だった時もあり、私は長らく5日が原爆記念日だと勘違いしてしまうこともあった。その日見た映画は、井伏鱒二原作の『黒い雨』だった。モノクロのべっとりした黒い画面が恐ろしくて、暗い気持ちで下校し、友達と会話した記憶がない。明るい気持ちになってはいけない日だった。原爆の体験を後世に伝える語り部さんのお話を聞く機会は度々あり、ガラスが全身に突き刺さった話や、焼け野原、あまりに凄惨な内容はしっかりした記憶がない。語り部さんによっては、語気を強めてお話しする方もいて、小学生の私は、どれが本当の話なのだろう、と混乱し、疑ってしまう事があった。記憶に忠実に、正確に語ることは難しい。私は語られたままに受け取る事ができなかった。一人一人違うトラウマを、普通の方が語らざるを得ないという酷さを理解できていなかった。90歳を越えた語り部さんが言った「自分に都合いいことしか言わんくなったから語り部をやめた」というセリフは、語ることの難しさと覚悟を感じさせる言葉だった。

私の家は、爆心地から直線距離で71km離れている。広島市内までバスだと1時間30分かかる距離だ。爆心地から2km圏内が壊滅地帯とされている。うちの祖母は被曝していない。そして生涯原爆について語らなかった。ただ、戦時中はイモばかり食べていたからイモは見たくない、と言っていた。一度だけ私に「大変だったんよ」と晩ご飯の時ポツリと言ったことがあった。私は、戦争の話が始まる、とその雰囲気を察知して、とても嫌な気持ちになったのが分かったのか、祖母は二度と戦争の話をしなかった。悲しい顔の祖母は見たくなかった。今でこそ、戦争は様々な顔を持っていて、空襲による火災、銃後の暮らし、戦争を社会参加と捉えた女性画家など、人によって全く違う戦争体験があると分かるけれど、私にとってずっと戦争=原爆だった。その後も入学式や卒業式、式典の度に、国歌を流すか流さないか、国旗を掲げるかどうかの議論があり、それは、ただの歌、ただの旗、ではない意味がのったものとしての了解が、暗いシミのように染み付いたまま義務教育を終えた。

「何で行くんだろう、あの人たち、死ぬかもしれないのに」
「しょうがないでしょ。ヨーロッパで戦争止めなきゃ。日本も戦争になっちゃうよ」

ガチャン、ガッチャーン、パイプ椅子を並べる音にセリフが呼応して、青い照明の中浮かび上がる椅子の配置は美しく、亡霊のようだった。椅子はいつの時代も人体を予感させる。

東京ノート公演写真撮影:水本俊也

「じゃ、まあ、気をつけて」のセリフと同時に照明が切り替わり、舞台は白黒写真のように平面的になった。壁に投影された原田裕規さんの、匿名の方々の写真を見つめ続ける映像作品《One Million Seeings》がそこで一気に存在感を増す。延々と個人的な誰かの思い出写真が流れ、私はそこに写る人物を直視する事ができない。覗き込むのを憚られるような膨大な、確かにそこに存在したであろう他人の記録。山口さんは亡霊の代表かのように、身体を通り抜ける数多の声を降ろす依代としての佇まいに変容したようだった。
近未来の美術館といっても想定された近未来は2004年らしい。

2004年は、私は渋谷でヤマンバをやるために広島から上京して、そのカルチャーの終焉を見届けた年である。
歴史的な出来事ではなく、私個人の歴史化された数字はおそらく誰しも持っていて、そこから紐付けて体系的にリアルな実感として時代を捉えるようになってくる。個人史が厚みを増した事で、歴史の理解が加速度的に進むようなフェーズに入っていった私の中で、2004年は大きい。

その頃の渋谷は、1995年に創刊されたギャル雑誌『egg』が、街と手を組みながらギャル達のムーブメントを盛り上げ、世間が制御できない訳の分からないエネルギーが渦巻いていた。
私は、その渋谷が持つ引力に巻き込まれた一人で、週6日サロに通い、部族のような装飾過多なファッションを纏い、センター街の路上でヤマンバ同士のビジュアルコミュニケーションを図っていた。ヤマンバは50人ほどいたと思うが、それぞれが人と被らないよう新しいものを求めて、性別を超えたSFのような世界で、自分とは何者なのか、葛藤と戦いの中にいた。

「誰よりも極めたかった」。極めた地点には終わりがある。私達は滅びる運命を内包しながら走り抜けた。私は、当時の記憶を記録画(ルポルタージュ)として残す事で、日本の特殊性が見えてくるのではないかと語り始めたところである。元ヤマンバは「私が死んでも絵で描いてくれたから残るね」と言う。彼女達の証言も、まとめて要約するのではなく、一人一人の「思い」まで残す事は可能だろうか、美術のフィルターを通して検証する事は、自分を含めた00年代の亡霊を蘇らせるような儀式でもある。「戦争が終わったら女が強くなる」とは、『はだしのゲン』のゲンが言ったセリフだが、戦後に生まれたギャル文化を平和の象徴として描いている。

話が逸れてしまった。そういえば、広島では現在ご高齢の語り部さんの代わりに伝承者の方が体験を語っておられる。被曝体験者の6歳当時の記憶を伝承者が伝える。他人の過去の記憶を代わりに語る事はどれくらい可能なのだろうか。当事者の複雑な思いや葛藤を、どの温度で伝えるのが適切か、そして本人への許可義務など課題も多く、ずっと模索し続けている姿が印象に残った。

語る人もいて語らない人もいる。それぞれの守り方がある。語らなかった祖母は、「この」広島でたくましく幸せになってほしい、そう願っていたに違いない。原爆ドームはもはや景色になった。しかし時代の局面を迎えた時また迫真性を持って迫ってくるのを感じる。

私と広島の距離は71kmあり、その筆舌し難い悲劇の歴史を美術の言葉で語ることは私にはできない。それが71kmという距離感によるものなのか、母親の「戦争の絵で金儲けしちゃいけん」という教えによるものなのかは分からない。

1994年に上演された『東京ノート』を2025年に上演し直し、94年の言葉をこうして受け取りながら、口承や伝承の困難さについてぼんやり考えている。しかしこの困難さにずっと向き合っていたいと思う。
最初の演劇体験がこの7度版『東京ノート』でよかったと思った。
ずっと先の未来に投げているんだ、その困難をやってくれている人達がいると思った。模索を続けている誠実な態度に励まされて帰った。

「フェルメールの絵って、みんな人が窓のほう向いてるんですよ」

人は窓を求める。世界が暗ければ暗いほど。
ドアが開き、光がバンッと差し込むと、劇場はカメラ・オブスクラの暗箱そのものになった。各々の記憶が像を結び世界に転写され、いずれまた思い出すことができる。
それを次に見返す時には私達はもう別の顔をしていて、正確に見ようとするならやっぱり少しの時間と少しの距離が必要になる。パイプ椅子の金属が光を受けてキラキラと反射し、数多の星のようにも見えた。

近藤智美(画家)

広島県生まれ/東京都在住 体験から実感した事を起点に、美術史と個人史を接続させ、絵画を中心に発表している。2003年から2004年代に、渋谷で実際にマンバギャルとして、ブームの中にいた当事者でもあり、ヤマンバギャル文化を美術史として、資料的に残すことをライフワークとしている。

 2013 「LOVE展」森美術館、2017 「THE ドラえもん展 TOKYO 2017」、2023 個展「大正ヤマンバギャルド」、2025 「ニッポン制服クロニクル」弥生美術館など。